イタリア ラベンナ・Ravenna散策

世界遺産の町・ラヴェンナはイタリア北部の小さな町です。紀元前3000年から1000年頃に起きた民族移動の際に、東地中海から遊牧民が移住してできた町だそうです。その後ギリシャの都市、スピーナとアドリアが衰退した事により、ラベンナは商業都市として昇格したのだそうです。又、カエサル(シーザー)が紀元前49年にルビコン川を渡り、蛮地におもむく為に軍隊を集結したのもラベンナでした。紀元2世紀のローマ帝国時代、トラヤヌス帝が70kmにおよぶ水道橋の建設を命じ、フォルリの丘陵地帯から、各都市に水が運ぶ事が可能になったのですが、その水道橋もラベンナには残っているそうです。(地中4〜7mに埋まっているそうです。)
この調子で書いていくと、何ページあっても足りないので、端折りましょう。
とにかく、ラベンナは、イタリアで最初に異民族が王国を建てた地であり、紀元5世紀、西ローマ帝国の最後の首都でもありました。

地元の住民である、友人のパオロに市内を案内して頂きました。パオロに深〜〜く感謝です。Grazie!! Paolo!

なお、室内の画像は、露出を長くする必要があった為、どれもブレた画像になってしまいました。どうかご容赦下さい。

サン・ビターレ(聖・ヴィッターレ・S.Vitale)聖堂
サン・ビターレ(聖・ヴィターレ)聖堂は、527年に、エクレツィオ司教の構想で着工され、完成は千年キリスト教帝国として栄えたビザンチン帝国(東ローマ帝国)支配下の548年5月17日。第27代マクシミアヌス大司教が聖堂の献堂式を行なったとされています。
建物の重厚さとモザイクの装飾性が見事に一体化され、世界でも唯一と言われるラヴェンナ式ローマ建築の粋を集めた聖堂で、ビザンチン建築様式の傑作とも呼ばれています。丸屋根の技術や中庭、階段状の塔などには伝統的ローマ建築を用い、柱頭やトランセンナ、多角形の後陣(アプシス・祭壇の背後の円蓋のかかった奥の所)などは、ビザンチン様式の原型となりました。
クーポラ(教会の塔のアーチや丸屋根)は直径16mで、土管を次々に接合して水平に配置しており、軽くスマートな建物を作る技術が見て取れます。

なお、サン・ビターレ(聖・ヴィッターレ)は、ディオクレティアヌス帝により、異教徒として殺されたのですが、その遺体は聖アンブロージョの時に発掘されました。
朝陽を浴びる質素な建物。
八角形をしているようです。
外観は極めて地味なこの建物こそが、モザイクで有名な
サンビッターレ教会です。
(控えおろう!!)
空は快晴。
逆光になってしまいました。 こちらは裏の駐車場。
このすすきみたいな植物、すごく背が高いです。わきを歩く男性と比べて下さい。
中に入ると、まずその広さに驚きます。え?外から見た時、決して大きな建物には見えなかったのに、中はこれほど広い空間になっているなんて、まるで狐につままれたような感覚でした。しかも、その内部は、地味な外観と対照的に、実に美しく壮観なものでした。下記の画像をご覧になると、豪華絢爛に思えるかと思いますが、実際には、ここまでキンキラしてはいませんでした。中に入った際、足元等暗かったので、詳細を撮影しようと露出を思い切り上げた為、物凄く明るい画像になってしまいました。(お陰で、ブレた画像ばかりです。すみません。)又、窓際は朝陽を浴びて金色が更に増して、こんなに煌びやかになってしまいました。

とにかく、床や壁、天井まで、素晴らしいモザイクで埋められた聖堂です。色の一つ一つ、点の一個一個が全てモザイクなのです。これは絵筆で描くよりもずっと手間がかかる作業で、この聖堂を埋め尽くすモザイク画が完成するには、想像を絶する苦労と技術を要したものでしょう。
「ユスティニアヌス帝とその廷臣たち」のモザイク画
いきなりボケ画像ですみません。
この絵は、歴史通でなくとも、ご覧になった事があるかと思います。
ユスティニアヌス帝 Emperor Justinian I のモザイクです。
中央の、手に黄金の聖体皿を持っているのが皇帝です。本来は神にのみ許されている光輪を輝かせ、マクシミアヌス大司教が執り行う奉納の場へと進んでいます。マクシミアヌスは帝国の宗教政策を代表する人物で、大きな十字架を手に持っています。皇帝の右2番目です。ご丁寧に名前が頭上に書かれています。
モザイク画の下の、大理石にモザイクが埋め込まれ?ているのも、素敵でした。
この画像では小さく見えてしまいますが、高い所にあり、等身大以上のモザイク画です。(窓が大きいのです。)
「テオドラ妃(后)と侍女達」のモザイク画
こちらも、いや、こちらは更に有名なモザイク画かもしれません。
ユスティニアヌス帝のモザイク画のお向かいの壁に描かれています。
テオドラは、元踊り子とも、女優とも、文献によっては娼婦とも書かれていますが、とにかく当時、皇帝が結婚相手とするには、考えられない身分の女性だったようです。しかし、皇帝はテオドラをミソメテ周囲の大反対を押し切り、テオドラと結婚。
テオドラの美貌は有名ですが、美しいだけでなく、極めて賢く、才覚のある女性だったようです。
532年1月に皇帝打倒を求める反乱「ニカの乱」が起きた際、逃げ腰だった皇帝を叱咤激励し、宮廷内の士気を鼓舞し、2人の将軍に武力鎮圧を支持、程なく、反乱は納まったそうです。皇帝を退位して逃走?しようとしたユスティニアヌスに対して、「帝衣は最高の死装束よ!」と説得したそうです。
この反乱制圧の後、東ローマ帝国(ビザンツ帝国とも呼ばれます)は1000年も栄え続けるのでした。

左のモザイク画では、テオドラにも光輪が描かれ、その背景には、不死の象徴である貝がらでできた壁がん(通常、奉納品を置く場所ですが、建造物の外側の壁に造られたものは、ろうそくなどを燃やして夜光を取っていた場所)が見えます。テオドラは真珠をふんだんに散りばめた冠を戴いています。
半円ドームの中央がひげの無いキリスト
両側に天使。左端に聖人ビターレ。殉教をたたえる冠をキリストから与えられています。
右端に、聖ビターレを擁護したエクレシオ司教。手に聖堂のモデルを持って、キリストに捧げようとしています。聖ビターレとエクレシオ司教の上に名前が表示されています。
キリストの下に広がる草原には、よじった形で表された4本の川と沢山の花のある庭があり、空には絹雲が描かれ、牧歌的に表現されています。
キリストの頭上(テオドラからユスティニアヌスまでのアーチのふち)には、豊饒の角(2本を交差させたものを連列)と鳥と花が並んでいます。
内陣帆型のヴォールト:中心に光輪をもった神秘の子羊と金銀の星、周囲四方に天使達が描かれています。 左側半円形部分にアブラハムにまつわる2つのエピソードが描かれています。 半円形部分の上部のトリフォラ(3連窓?)には、それぞれ、繊細な透かし模様の入った、オニキスの円柱が、とても美しかったです。 後陣外輪:光の輪を支える2人の天使
足元も美しい。ここは、建築当初のままだそうです。 近くで撮影すると、モザイクのそれぞれが少しづつ色が異なっているのがわかります。 柱頭には、凝った彫刻が施されています。 タイルもモザイクでできており、この色使いがまた素敵です。 これは縦なのか横なのか?
同じ模様も接近すると、わずかに異なるのが手作りの証拠ですね。
モザイクのアーチ(キリストと聖人達)をくぐると、全く異なる作風の天井が現れます。高さ30mの天井に描かれているのは、フレスコ画です。16世紀に描かれ、18世紀に修正され完成されたようです。モザイク画とフレスコ画とのコントラストが大きく、異空間のようです。
周辺の半円形天井は、それぞれに模様(確かではありませんが、大理石の彫刻に見えました。)が異なりますが、いずれも大変美しいものでした。 再度モザイク壁画を振り返って見ました。 大理石の壁や柱は幾何学模様風?になっています。上下左右対称になるよう切り開かれつけられているのです。
外に出てくると光が眩しかったです。 サンビターレ聖堂の隣、同じ敷地内にガッラ・プラチディアの霊廟があります。 ラベンナはアドリア海に面しており、松林でも有名だそうです。
ガッラ・プラチディアの霊廟 Mausoleo di Galla Placidia
ガッラ・プラチディアが、これまた説明し始めると長いのですが、西ローマ帝国皇帝のテオドシウス大帝の娘で、409年に西ゴート族のアラリック王にイタリアが侵略された時には、捕虜となり、413年、アラリック王の後継者アタウルフォと結婚、アタウルフォが亡くなると、兄ホノリウスのもとに返され、416年、コンスタンティヌス帝と結婚させられました。コンスタンティヌスも亡くなり、点々とするのですが、結局ラベンナに戻されました。兄ホノリウスも亡くなり、コンスタンティヌスとの間の子、ヴァレンティニアヌス3世が西ローマ帝国の皇帝となり、母ガッラ・プラチディアはその後見人となったのです。
 450年、彼女はローマで亡くなりました。この霊廟は、プラチディアが生きていた時、彼女自身が小礼拝堂として建てたものだそうです。写真を撮りそこねましたが、中に、彼女の棺と子供達の棺が置かれていました。
サンビターレと違い、こちらはこじんまりしていますが、中のモザイクの素晴らしさは、溜息が出る程でした。
クーポラの内部は、金の星が散りばめられた夜空。その四隅には、牛、獅子、鷲、人間(羽根付きで、おとめ座のよう)がキリスト教の象徴として描かれていますが、これらは、皆、神話から取り入れられているようです。星座でもおなじみですね。わしこそ黄道12星座には入っていないものの、星座としては有名ですし。
アーチ型天井も青が基調となり、大変美しい模様のモザイク画になっています。正面のアラバスター(雪花石膏)の小さな窓から黄色い光が差し込んでいました。(ほかに灯りがなく、暗かったので、画像がぶれてしまいました。)
ガッラ・プラチディアの霊廟は、ダンテの神曲でも、そのモザイクの美しさが語られているそうです。
昔のものなのに、カラフルで、現代的ですね。 こちらも実に細かいモザイクです。 床のモザイク。 石を切ったり砕いたりして敷き詰めたのでしょうか? 利用されたアラバスタ?らしいです。めのうやオニキスのようで、神秘的でした。(普通アラバスタというと白だと思いますが・・・)
サンビターレ聖堂の裏?の庭にて。 同、入口にて。白い門の真下に白い服の親子がいますが、こうして見ると、門も結構大きいです。 友人パオロ。巨人に見えます。 聖堂入口にて。白い服の親子も出てきました。 休憩。かわいいグラスの中は・・・お水です。 コーヒー。もちろんエスプレッソ。
ダンテの墓 
フィレンツェを追放されたダンテが、「神曲」を書き、そして、亡くなるまで住んでいたのが、ラベンナでした。
実はダンテの墓は生まれ故郷のフィレンツェにもありますが、遺骨を返して欲しいとラベンナに頼んだフィレンツェに、ラベンナがきっぱり断ったのだそうです。(その時に建てられたのがこの墓碑?とも言われています。)ダンテを追放しておいて、虫が良すぎるでしょう。なので、ラベンナにあるこのお墓こそが、ホンモノのダンテの墓だそうです。(でもここの灯りの油はフェレンツェから送られて来るのだとか?真偽の程は定かではありません。)
世界的に有名なダンテのお墓としては、ちとお粗末というか窮屈そうですが、内部の大理石のレリーフは瀟洒で、特に紫色が目を引きました。天井から例のランプ(上記)が吊り下げられていました。下に見える白いものがダンテの棺です。 こんな感じ。
1944/3/23から1945/12/19がどうしたのか、ダンテとどう関係あるのかよくわかりません。ごめんなさい。 サン・フランチェスコ聖堂。ダンテがよく祈りを捧げていた教会で、1321年にダンテが死去した際、ここで、葬儀が行なわれたそうです。ダンテのお墓は、この教会の隣にあります。
サンタポッリナーレ(サン アポリナーレ) ヌオーヴォ聖堂
6世紀前半にゴート族のテオドリクス王によって建てられ、その後561年に当時の司教によりカトリック正統派に捧げられたのだそうです。
中央広間の左右大壁面に、イエス・キリストの物語や聖書に書かれている場面等がモザイクで描かれています。22人の聖女の行列やら、26人の殉教者やら、並びに並んでいます。このモザイクも大作ですが、ずらずらと並んだ人々の様は、単調で倦怠感をさえ感じるほどでした。(すみません。恐らく自分自身が疲れていたのでしょう。サンビターレとプラチディアのモザイクが凄すぎた所為もあります。)
一部修復中でした。上ばかり見て、首が疲れました。 白い壁は好感が持てました。 モザイクの色比べ?
ハンマーみたいな物で砕いて・・・
なるほど。ガーゼにモザイクを裏向きにして仮貼り付けし、それを表に向けて壁に貼って行くようです。 紅葉を通して、初冬の日差しが暖かそう。
ポポロ広場。1483年に建てられた2本の円柱や、1681年に再建された市庁舎、1461年に建てられたヴェネツイア宮殿(中に6世紀の柱頭あり)などがあります。 ラベンナの街中。石畳の通りは、午前中はにぎやかでしたが、お昼休みなのか、閑散としていました。 お昼はピザ。一人一枚。って、でかすぎるだろうが〜!でも、メッチャおいしかったです。


イタリア 1(ラベンナ・プラネタリウムと天文フェア)back
イタリア 2(ラヴェンナ ここ)
イタリア 3(ベニス・ベネチア・Venice)へ
イタリア 4(フィレンツェ・Florence)
イタリア 5(ローマ・Rome)

あすとろけいTOPへ
掲示板 (Guest Book)
メール (mail)


ALPA (パオロの天文同好会の一つ)の天文フェアページ

こども達に星を観せる会 日本語  Sidewalk Astronomy around Kansai, Japan (English)
あすとろけいのHP日本語  Astrokay's Website (English)