30分ほど休憩して、竜宮方面へ向けて歩き出した。
弟は、短い間に熟睡したらしく、さっきよりスッキリした顔をしている。
彩夏はだいぶ木道歩きに慣れたらしく、他のハイカーの邪魔にならないよう、左右の木道をひょいひょいと移動しながら湿原を眺めている。

時々、行き交う人に「あら、いくつ?」「えらいねー。」「ちっちゃいのに、頑張るねー。」と声をかけられ、嬉しそうだ。

 彩夏と一緒に尾瀬を歩くという計画を立てたとき、心配したことが二つある。
一つは、お母さんと離れて眠れるかどうかということ。
二つ目は、木道歩きを怖がらないだろうかということだった。

 尾瀬の木道は新しく作り変えられる度に少しずつ高くなってきていて、小さい子供にとってはかなりの高さに感じられる場所がいくつかある。
限られた幅の道を、しかも地面よりずっと高い道を歩いた経験が今までの彩夏にあっただろうか…。
「怖い〜、抱っこ〜。」と泣いたりしたら、どうしよう…。

誰かが彩夏を背負うと、その分一人当たりの荷物量が増える。
泊る場所を山の鼻にした方がいいのかな、いや、それじゃつまらないし…。
出かけるまで、あれこれ思い巡らしていたのだった。

でも、実際に木道を歩き始めると、心配して損した〜!と思えるくらいに彩夏は平気だった。
さすがに、原の川上橋のところでは「怖い〜。」と言って腰が引けていたが、「大丈夫だよ。手をつないで一緒に渡ろうね。」と言うと、ゆっくり歩を進め、渡り終えた後には「やったー!」と言って、顔を高潮させていた。
今思えば、彩夏の尾瀬での二日間は、自信がないことを一つずつやり遂げていくことの体験学習だったように思う。何かをやれた時、自己満足で顔が輝いていた。

 さて、竜宮に着く頃にはいくらか雲がふえてきていたが、クーちゃんママが疲れ気味だったので、竜宮カルストのベンチで休むことにした。
車の中では眠れないと言ってたから、無理もない。

見晴しまでは、あと30分の距離だ。少しゆっくり休んでいこう。
荷物を降ろし、思い思いにベンチに腰掛ける。
彩夏が「横浜ママー、お花の本見せて〜。」と言うので、植物図鑑を手渡すと、クーちゃんママも一緒に覗き込む。

「これはヒオウギアヤメ、さっき見たよね?綺麗だったねー。これは、ハクサンチドリ…。これは、オコゼホネ…。」と、クーちゃんママが花の名前を読む。

「オコゼホネだってー。ヘンな名前〜。」と、彩夏が甲高い声で答える。

「いやだー、オゼコウホネですよ〜。コウホネ。」と言う私も、つられて大笑いする。

カルスト現象が見られる池塘を覗き込むと、小さな魚がいっぱい泳いでいた。
「彩夏〜、来てごらん。お魚たくさんいるよ〜。」と声をかけると、すぐにやってきて、「わ〜、バーベキューしたいね。」と言った。

「…」
オイオイ、そんなこと言ったら、魚たちが逃げるでしょ…。

私が写真を撮っていると、彩夏が「横浜ママ〜、どうしてさかさまなの〜?」と、池塘を挟んで反対岸にいる私に向って声をかけてきた。
水面に映る私の姿が面白いらしい。

「彩夏だって、こっちから見るとさかさまだよ〜。クーちゃんママも彩夏のパパも、さかさまに見えるよ〜。」というと、彩夏が私のところへ走ってきた。

「わー、パパー、どうしてさかさまなの〜?」と、今度はパパに向って、楽しくて仕方がないといった表情で言う。

池塘の周りを行ったり来たりしながら、木道のすぐそばに咲いていたワタスゲの果穂を小さな指でツンツンとつついて、「かわいーね。」と言ったとき、尾瀬が彩夏に花を慈しむという心を与えてくれたような気がして、私はとても嬉しかった。


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