雷雨が通り過ぎると、青空が広がった。
イワツバメが忙しく飛んでいる。
風が冷たいから、晴れているにもかかわらず肌寒いくらいだ。
雨宿りしていた人たちが、準備の出来た人から順番に外へ出て行った。

 約3時間の爆睡から目覚めた彩夏は、再びオシャベリな女の子に戻っていた。
温いおうどんで身も心も温まり、4人とも元気だ。
彩夏とトイレへ行った帰りの木道で、山の鼻ビジターセンターの七五三木(しめぎ)所長とお会いした。

「あれ〜、いつの間に子持ちになったんですか?!」
「うふふ、隠し子を連れてきたの…って、実は弟の子です。」

「あやかちゃんっていうのか…。」
七五三木さんは腰をかがめて、彩夏のカッパに書いてある名前を読みながら、彩夏に話し掛けてくれる。

「おじさんね、ここでお仕事してるから、また帰りに寄ってちょうだいね。」
「…」こっくり。

恥ずかしそうに頷く彩夏の頭を撫でながら、七五三木さんは今度は私に向って言葉を続けた。

「今年はレンゲツツジが綺麗ですよ。今はワタスゲが白くなり始めたところかな…。ズミも綺麗だし、いい時期だから楽しんできてください。今日は泊りでしょ?」
「はい、尾瀬小屋に予約入れてます。じゃ、そろそろ出かけますね。向こうで弟たちが待っているので…。」

 雨具をザックに仕舞い、いよいよ尾瀬ヶ原に向けて出発した。
拠水林を通り過ぎると、カエルの合唱が出迎えてくれた。とても、のどかだ。

七分咲きのズミが美しい。
小さなコツマトリソウが白い花びらをいっぱいに開いて、集団で笑顔をふりまいている。

木道沿いにたくさん咲いている紫の花は、オオバタチツボスミレだ。
タテヤマリンドウも、太陽の光を感じて開き始めている。

ピンクのヒメシャクナゲは何と愛らしいことだろう。
カキツバタも咲き始めているし、ワタスゲだって思っていたより数が多い。
もう少し時間が経てば、乾いてフワフワになりそうだ。

青空が広がり、風が心地よい。
私は尾瀬に居る幸せに浸りながら、一番後ろをのんびり歩いていた。

 前方に目をやると、木道がカーブしているところで、彩夏とクーちゃんママが湿原を指差しているのが見えた。
時々、「あれは〜?」とか「おもしろーい!」とか、彩夏の甲高い声が風に乗って私の耳に届く。
彩夏は早くも興奮気味のようだ。
少し急ぎ足で近づくと、二人は花の時期を終えたミズバショウを見てあれこれ話していた。

「横浜ママ〜、あれ、ぶどうみたいだよね?葉っぱはスイカみたいだよ。おもしろ〜い。」

彩夏はくすくす笑いながら、ミズバショウを指さして私に話し掛ける。
なるほど〜、ぶどうねぇ…私にはとうもろこしに見えるけど…。
葉はところどころに濃い緑の線が入っていて、スイカの模様のように見えなくもない。

 余談だが、彩夏は小さい時から私のことを「横浜ママ」と呼んでいる。
名前を教えても覚えない。
義妹が「横浜のおねえさんに電話しなきゃ…。」というような言い方をするので、私のことは横浜ママと勝手に命名したようだ。
ちなみに、我が夫のことは当然ながら「横浜パパ」である。

「あの白いの何?あれ!あのちっちゃいの。かわいー!」

「あのピンクは?」

「青いお花もかわいいね〜!」

彩夏はしゃがんで湿原を覗き込んでいる。
そして、私が答える間もないくらいに、次々と自分で見つけた花を指さしていく。
私はヨイショとザックを背中から降ろし、外ポケットに入れておいた『尾瀬の植物図鑑』を取り出した。

「この本に載ってるから、見てごらん。」と、タテヤマリンドウのページを開いて彩夏に手渡す。
植物図鑑のページをパラパラめくりながら、湿原の花と見比べていく。

「あったー!クーちゃんママ〜、ピンクのもあるよー!」
「ひ・め・しゃ・く・な・げって書いてある〜!」

たまたまそこを通りかかったハイカーが
「へ〜、お嬢ちゃん、ヒメシャクナゲっていうの?教えてくれてありがとうね。」と、やさしく声をかけてくれる。

彩夏は嬉しそうに「うん。」と答える。
そんなこんなで、同じ場所に30分近くも居ただろうか…。

やっと腰をあげて歩き出し、三又まで行くとちょうどベンチが空いていたので、休憩することにした。
お天気は不安定だが、青空が広がっていて、雨は降りそうもない。
ワタスゲの果穂がフワフワと風に揺らいでいる。だいぶ乾いてきたようだ。

おやつを食べた後で、「ここに寝転ぶと、いい気持ちなんだよ〜。」と言って、私は彩夏を抱き上げ、ベンチの上に寝かせた。
すると、彩夏はとても楽しそうな表情で、「いいねー、尾瀬っていいねー。」と、歌うように言った。

「静かだね〜。こうしていると、姉ちゃんが尾瀬に通う気持ちがよくわかるよ…。」と言いながら、弟も別のベンチの上に横になる。

「寝ないで運転してきたから疲れてるでしょ?少し休んで行った方がいいね。」と、クーちゃんママが弟に気を使って声をかける。

私も、彩夏の隣のベンチにゴロンと寝転がり、目を閉じた。
尾瀬を体で感じるには、これが一番いい方法なのである。

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