ゴールデンスコア制度を考える3
〜表現(プレゼンテーション)柔道〜

SINCE 2003/06/19

「一本を狙わない柔道」とは、あり得るのでしょうか?

例えば、一本を出すには完全な組み手が必要だとしますが、技を出さなければならないので、不充分な組み手からも技をかける。

これは「一本を取れないとわかっていながらも出す技」と考えることも出来、「ポイント狙い」とすることも出来るでしょう。

しかし、「一本を取ることだけが柔道」ではないと思いますし、また、なぜ「一本を取れないとわかっていて技を出さなければならない」のでしょうか。

相手を投げて一本を狙う、しかし結果として一本が取れない場合もあります。勝敗をつける為に、一本以外の投げによるポイント、寝技によるポイントを認める。相手を投げる、抑えることによって生じるポイントは、違和感がありません。

また罰則には「アンフェア」への罰則、ルール外の行いへの罰則など、選手の利益を守る為に、不公正な手段をした選手への懲罰の意味もあり、これも「ポイントを稼ぐ」柔道と言い切るには抵抗があります。

ではここで批判されるポイントとは、何でしょうか?

(批判される要素のポイントを生むもうひとつの要因)

それこそが、日本が危惧する「柔道の本質」を損なう部分ではないでしょうか?

自分自身の技(立ち技・寝技)ではなく、他の要因で勝利を得ようとする、その要因が、「印象点」です。意識して狙うことが出来、また実現可能な部分こそが、「ポイント稼ぎ」と呼称されると言えます。

ゴールデンスコアは、この行いに一定の抑止力を与えると考えられます。それは、試合中の「かけ逃げ」の意味を、少なからず失わせるからです。

「かけ逃げ」に代表される偽装的攻撃や、積極的に見えて組もうとしない戦法は、柔道の「技によるポイント」を生み出すものではなく、審判の印象に訴えるもので、その点では、フィギュアスケートで言う「プレゼンテーション」です。

しかし柔道は、強さを競い合う競技です。旗判定で「審判の評価」を得ようとする場合の「かけ逃げ」は勝敗を左右します。この為、「かけ逃げ」の摘要は、非常に重要な意味を持たされてしまいました。

勝敗を決める「かけ逃げ」について、少し立ち止まって考えて見ましょう。

「3種類のかけ逃げ」

かけ逃げと言う言葉は英語でFalse Attack、偽装的攻撃との意味を持ちます。本来の攻撃ではない形で攻めを演出する、それは「自分の技で投げる」「極める」「抑える」の概念から外れた、柔道の本筋から離れたものであり、「表現」と言えます。

1:防御的かけ逃げ

「かけ逃げ」には、ポイントを稼ぐ手段以外に、失点を防ぐ「偽装」もあります。これが元祖「かけ逃げ」と言えます。

バルセロナ五輪の決勝戦・ハイトシュ選手が見せた動きですが、古賀選手に技をかけさせないように非常に浅い形で、尚且つ反撃されない距離で「見せかけの技」を出し、相手の技を出す間合いを潰します。

試合終盤、ポイントで先行する選手が相手にチャンスを作らせない為、不充分な組み手から技がまったく決まる状態で無いにも関わらず、自身が先に崩れるような動きをするのもこれに該当します。

日下部選手がシドニー五輪でフェルナンデス選手と対戦した際、審判員に取られた罰則はかけ逃げでした。

しかし、ただフェルナンデス選手が走った勢いで技が潰れただけにも見えましたので、この防御的かけ逃げも、明確な規定があるわけではなく、審判の印象に左右される点で、難しい判定区分です。

2:攻撃的かけ逃げ

「攻撃的」は「実際に攻めているように見せかけ、試合中に相手へ悪印象(消極的罰則)を与えることを目的にした攻め方」、と定義します。相手に攻撃をさせない、或いは先に動くことで審判員の目を刺激する動き方も含まれます。

不充分な組み手で倒れこむケースが多いので、ほとんど1と同じですから、少し違った角度で見てみます。

これは積極的にポイントを得ようとするものです。

ポイントを得るかけ逃げは2種類ありますが、実際に「相手に罰則を与える」動きの場合は、「攻撃的」、旗判定で有利に進める為のものを、「印象的」としておきます。

共通するのは「審判の印象でポイントが得られる」点です。

「かけ逃げ」ではなく、「偽装的攻撃」で考えると、攻撃的な「かけもしない逃げ」も存在するのではないでしょうか?

同じ選手ですが、強く印象に残ったのが、やはりフェルナンデス選手です。シドニー五輪の決勝戦、フェルナンデス選手は積極的に動き、前に出ます。しかし組み手をはじいて、組もうとしない(組み合わない)のは彼女の方です。

にも関わらず、相手のキューバのゴンザレス選手に審判員は罰則を与えました。攻めているように見えるのは、フェルナンデス選手だからです。ゴンザレス選手は審判の判定への疑念を表情に出していました。

審判ではない自分なので、他の人が見たら違った印象かも知れず、錯覚かもしれません。

しかし、こうした方法もひとつの、審判員の印象を良くして、攻めているように見せることで相手の消極性を演出し、試合中にポイントを引出す、一種の「かけ逃げ(偽装的攻撃)」だと思います。

少なくともこの攻めが実際に存在し、成立した場合、相手選手は相手に先行されるだけではなく、審判員とも戦わなければなりません。審判員と戦うとは、審判の判定すべてを試合中に疑う心理です。

シドニー五輪では不合理な裁定を繰り返された中村行成選手が、何度も審判の動きを見ている、審判とも戦っているのが印象的でした。キューバの選手は、この中村選手が審判を頻繁に見ていたように、審判とも戦っていた様子がありました。

3:印象的かけ逃げ

2のように試合中のポイントは生まないものの、結果として旗判定を左右する攻め方です。

試合中にポイントが生まれるかどうかの差に過ぎず、「2」とほとんど同じかもしれませんが、2ほど積極的にはポイントを得ようとするものではないと考えます。

2は『自分は攻めているが、相手は守っている』との印象を呼び起こしますが、この「印象的」はあくまでも「自分は攻めている」「自分の攻めを見て欲しい」「攻勢を評価して」との「自分をアピール」するもので、相手の失点を積極的に呼びこむものではありません。

個人的には2001年の福岡国際-78kg級決勝戦、フランスのルブラン選手と、阿武教子選手の試合がそう見えました。

ルブラン選手は巻き込みを場外際で多用しますし、引き手をすぐに離して阿武選手からすっぽ抜けるように、自分から倒れこんでいるように見えました。

個人的には「かけ逃げ」と思うのですが、そんな動きを繰り返しましたが、「かけ逃げ」を審判が取らず、だとしたらそれは「攻撃」であり、阿武選手に「消極的」の罰則が行くはずです。

しかし、それもなかったので、「阿武選手は消極ではない」「ルブラン選手は攻めていた」、こんな試合展開に見えていたのでしょう。

試合の結果はルブラン選手の判定勝ちでしたが、これはルブラン選手の「攻め」が評価されて、試合中の阿武選手の動きは罰則が無かったので、「消極的ではなかった」、その点で「自分のポイントを稼ぐ」(<>相手の失点を招く)、「印象的かけ逃げ」と名づけています。

みっつの分類をあげてきましたが、こうした行いは柔道選手が日々の練習の中、道場で築き上げてきた努力の結晶でしょうか? 柔道の技術なのでしょうか?

ここで疑問が出ます。

「果たして、これが柔道でしょうか?」

上で述べてきましたものは一概に正しいと言えません。一例を取り上げて、それを普遍化しており、それ以外の実例をあまり集めていませんのですから。

互いの実力が均衡している場合は、攻め手を失うケースもあります。そこで止まるのではなく、なんとか崩しながら、動き、技を出すだけでも出して自分のペースを作り、相手のミスを誘い、焦らせて、技を出す準備とする作戦もあり得ます。

しかし、それは「組み手における攻防」で柔道そのものであると考えます。

ここで述べたかったのは「初めから技によるポイントを得ようとせず、審判員による印象点を稼ぎ、ただそれだけに依存する形での柔道」です。

それは審判員の目を意識して、審判員にアピールして、審判員からポイントを貰って勝つ、試合に過ぎないのではないでしょうか。

こうした形での柔道と、華やかな演技のフィギュアスケートでの評価点のひとつ、「プレゼンテーション(印象点)」と、どこに差があるのでしょうか?

「旗判定は絶対に正しいのか?」

旗判定が不合理に思われるのは、上で述べてきました「偽装的攻撃」による「表現」が大きな要因を占めることが出来たからです。

また判定基準が不鮮明な為に、審判員が試合場のホームの選手を勝たせる、観客の圧力を受ける可能性が極めて高かったからです。

かつては同じ大陸の審判員が裁いていたこともあり、身内びいきの意識が旗判定を曇らせましたが、他大陸の審判員が裁くケースでも、審判員に少しでも自信が無く、判断する根拠を見出せなければ、ホーム有利な裁定を下してしまうケースが多いのです。

前述したパリ世界選手権、そしてドイツの世界選手権、さらに2002年の日本国際決勝戦、7階級制覇の懸かった日本を代表してフランス・フェルナンデス選手と戦った高松選手の試合も、高松選手はフェルナンデス選手の有効に終わった技を、「海外の試合だったら技有りだった(=技ありならば、高松選手は負け、日本の全階級制覇は無かった)」と述べています。

「見せかけの攻撃によるポイント狙い」の利益が旗判定の消滅で少なからず消えて、相手に「消極的」の印象を受けつけ、「罰則」を与える意味は残りはするものの、勝つ為には、「自分の技で攻めなければならない」気持ちが強まると思えます。

前回の主審三人制でもそうでしたが、『近代柔道』で主審三人制、ビデオ判定、そしてゴールデンスコア制度と、真剣に取材した記事が無いのは不思議な話です。ルールで戦う環境が激変する以上、それに対しての関心は高くていいはずです。

自分の考えでは、旗判定には欠点があり、ゴールデンスコア制度にも欠点はあるものの、少なからず旗判定の欠点を補おうとする姿勢や要素が見えます。

そして、このあたりの議論、或いは整理をすること無しに、「ゴールデンスコア=柔道の本質を損ねる」と言った議論は、現実を見ていないと思えます。

「一本を狙う柔道の本質を損ねる」、日本が金科玉条とするこの考え方は、「旗判定によって成立し、ゴールデンスコアによって損ねられる」性質では無いということを述べてきました。

それを損ねるのは、「表現柔道(プレゼンテーション柔道)」であり、旗判定がその柔道を助長した一面があるのは否めない、という部分を指摘したつもりです。

新制度を批判するより、本質的な問題である、この「表現柔道(プレゼンテーション柔道)」について、どのような対策を講じていくのか、議論の論点ではないでしょうか。

変則的な柔道、日本が対応できない柔道。

しかしそれはあくまでも「競技柔道」の世界ではないでしょうか?


(最後に)

「新制度が導入されるそのこと」だけに反対するのは意味がありません。導入されることは「何かを解決する手段」に過ぎないのです。その問題点の認識を行ってきたつもりです。

掲載まで長く時間が空きましたが、特に例証が増えたり、論点を深められたわけではありません。その点は柔道の現場にいる専門の研究者の方に任せたいと思います。

外部の人間として、手に入る資料の範囲、そこから部外者だからこそ見えるものとして、いろいろと書いてきました。そのスタンスは、誤審について書いてきた頃と、変わりません。

何かしらの参考になれば、幸いです。

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