『報道のされ方』SINCE 2001/05/18 |
(『現代』2001年05月号)上述雑誌(講談社刊)のP.248〜257において、『奮起せよ! ニッポン柔道が危ない』という記事がありました。ノンフィクションライター(有段者2段)高橋秀実氏による文章ですが、このなかで『誤審』に関する読者への説明があります。既に6月号が出ているので最新ではない話題ですが、自分、矢部里がこの文章を読んで、承服しがたい部分の分析となりますので、やや偏った形となり、書いてある文章の都合のいい部分を引用している点を考慮して、もしも読む機会があるのでしたら、図書館なりでバックナンバーを読むことをオススメします。 (明らかな一本か?)まず始めに、氏は『内股透かし』の有効性について、疑念を持っています。故に文章の構成も、そうした疑念を抱く余地がある体裁をしています。最初はNHK解説者(岡田さん)のコメント、有働アナの涙、そして日本人による抗議の熱狂ぶりを述べ、その後で、『全柔連関係者』が、抗議の板ばさみ(日本人からの抗議と、IJFからの抗議を沈静化要請)にあっていた点を上げ、抗議の大きさを語らせます。『しかし、そこまで怒るほどの明らかな一本だったのだろうか?』 (『現代』2001年05月号P.249・3〜4行目:高橋秀実氏・著) 筆者はその根拠として、まず試合を見ていた高段者のコメントを引用します。このコメントはその発言者のいた角度からでは篠原選手の一本に見え無かったというものです。次に、東京都柔道道場連盟会長の鈴木義彦さんのコメントをあげ、すかしたものの、倒れたのだからという言葉で、明らかな一本ではないと『証明』しています。 しかし、このわずか2名と、筆者の判断だけで、物事の説明は足りるでしょうか? その他にもこの件に関して、国際審判資格を持つ遠藤純男氏、二宮和弘氏、小野沢弘史氏がコメントを出しており、遠藤氏は前者に近い意見ですが、二宮氏は篠原選手の一本、小野沢氏も会場ではドゥイエ選手の技に見えたが、ビデオを見て篠原選手の一本と、コメントしております。 (根拠……人の数だけ)様々な意見がある中で、自分の主張したい部分だけを引用する、そしてその他の声を載せない、これでは論証として不十分です。自分が危惧するものは、こうした片面での主張のみがマスコミに載ることです。後日、振り返った場合、その他の声が消されてはいないか、加工されていないか、現時点でさえ、この記事は『加工』されています。もちろん、自分自身、あの流れを見て、どちらの技かはわかりません。ですから、自分が信じられる人の意見を信じます。多数決でも柔道の段位でも決まるものではありませんが、山下氏、斉藤氏、二宮氏、小野沢氏、井上康生選手、野村忠宏選手、中村良三教育理事、一応ジム・コジマ審判理事、そして他ならぬ篠原信一選手が一本と確信したのですから、それを信じています。 最終的に、物事の正しさを判断する段階で、誰もが何かを信じています。「根拠があるから正しい」と言う人も、その根拠をなぜ根拠と出来るかについて、説明できるでしょうか? できたとして、さらにその説明の根拠を論証する根拠を提示できるでしょうか? そもそも、それを説明する自分自身が正しいと、まず信じなければ、何かを証明していくことは不可能ではないでしょうか? どんな論理的なことであれ、信じることまで行き着きます。ですから自分は、自分の信じたい言葉を信じます。自分を信じていますから、自分の信じる相手が正しいと、信じられます。 「一本ではない」という人は、自分とは反対に、この記事を書いている高橋氏がするように、疑念を抱く人の言葉を『信じて』います。ですからそれを中心に『引用』しています。自分が例として上げた『一本』と言った人の言葉を一切載せず、ただ『NHKの解説者』のみが、その熱狂を煽ったような言い方をしていますのが、やや承服しがたいです。マスコミの影響力を考えると、この点の曖昧性を指摘しておく必要があります。 さて、この筆者はわずか2名の言葉を論拠として、次のように、非常に大胆な結論を下します。 『あのとき明らかだったのは、篠原は自分の「一本」だと確信してガッツポーズをし、「有効」をとられたことを知って、残り時間、やる気をなくしたことだった。』 (『現代』2001年05月号P.249・16〜20行目:高橋秀実氏・著) ここで問題なのは、筆者が『残り時間、やる気をなくしたこと』と決め付けている点です。篠原選手自信が 敗因に関して、戦う気力を奮い起こせなかった面があったと述懐していますが、その他の部分では取材をしているにも関わらず、 この部分に関しては一方的な断定のみで、具体的な根拠は読者に共有されません。 『明らかな一本ではない』と、つまり「日本人があれほど抗議するだけの明らかな一本じゃない」と、2名の言葉を引用して論拠付けたにも関わらず、この部分では、その根拠があったとしても、読者の前に、提示されていないのです。さらに氏はこの『根拠を示していない想像』に基づいて、次のように断じています。 『これでは"精力善用"とは言えず、勝ち負けに拘った篠原の負けである』 (『現代』2001年05月号P.249・21〜23行目:高橋秀実氏・著) この部分が、篠原選手の名誉に対する暴言のような、気がします。直接、篠原選手に取材をせず、生の声を載せていないのです。この記事の冒頭は、『精力善用』『自他共栄』の言葉から始まり、勝負にこだわることは嘉納治五郎師範の教えにはないと、述べています。その文章を、こうした言葉で結ぶことは、あまりにひどい論理の帰結ではないのかと、考えます。 (暴言?は続く……)筆者は篠原選手に対して、或いは野村選手に対して、座視できない文章を書いています。フィギュアスケートの芸術点のようだと比較しながら、審判の判定について、国内の審判員(匿名です)の言葉をあげます。『内容的に引き分けの場合、最後は印象ですよ。審判は人間を見るわけだから。その点でも篠原は負け。せめて無精髭を剃って出るべきだったね。ドゥイエは堂々としてたけど、篠原は貧相だもん』(国内審判員) (『現代』2001年05月号P.250・9〜14行目:高橋秀実氏・著) これはこのインタビューに応えた個人の声に過ぎないと思いますが、選手に対する礼儀を欠いた言葉を言う人が、柔道を審判をやっている事実が、自分には寒く思えます。その人の哲学であるならば致し方ありませんが、それをそのまま掲載する筆者のセンスも、自分には信じられません。柔道が外見で試合をすると、受け止められる文章です。 この審判員とは別に、『顧問審判員の古老』という方の意見を載せていますが、これに関しては現場で審判をすることの難しさを語る、いい内容だと思います。長いので載せませんが、この部分は審判を選んだならばそれに従う、との言葉です。 しかし、またしても『不適切』な言葉が続きます。 『競技関係者が打ち明ける。 「実は篠原の試合の審判は、野村(忠宏)の初戦の審判もやっているんです。その時、野村は明らかに"一本"とられる技で投げられたんですが、すかしと勘違いされたのか、ポイントを取られず命拾いしました。そういうことを加味して考えないといけません。全体の流れ、というものを見ないと。それが柔道です」 野村が得して篠原で損した。今回の五輪は"帳尻が合っていた"のだった。』 (『現代』2001年05月号P.250・20〜P.250・8行目:高橋秀実氏・著) この筆者は自分で試合を見ていたのでしょうか? 競技関係者の言葉をそのまま載せて、この人の言葉も様々な部分で、真実かどうか、曖昧です。 例えば『明らかに一本とられる技で投げられた』ですが、前述の『内股透かし』では『明らかではない』と経験者2名の言葉と、筆者の言葉で論証していましたが、ここでは、この『競技関係者』の認識のみを元にしています。 一応、この技で野村選手は、腹這いに落ちています。勢い的に一本でおかしくは無いものの、それが『明らかな一本』かどうかは、疑問の余地があり、それを説明できていない時点で、この『競技関係者』の言葉は、もっともらしく聞こえるだけです。 さらに筆者の結び方は納得できません。『篠原選手の部分で損をしたのは、野村選手の判定が有利だったからと受け止められる書き方』は、あまりにも失礼ではないでしょうか? 日本に甘い判定をした、その結果として最終日に帳尻を合わせた、という事実があったのでしょうか? そう考えるのは自由ですが、それをどうして証明しようとしないのでしょうか? 結果論に過ぎません。二重の意味で、野村選手の『得』によって、篠原選手が『損』したという書き方は、失礼を通り越して、誹謗中傷のレベルではないかとさえ、思えます。 この時期に柔道関係の話題を取り上げてくれること自体は素晴らしいと思いますし、その他の取材記事は、嘉納会長へのインタビューや少年柔道の現場、フランスとの違いなど、環境についての考察で成り立ち、読む価値があります。 ただ、書かれている文章に若干の偏りと、自分の意見をまず先に持ってきて、それから都合のいい事実を拾い上げている、そんな印象があります。事実から物を書くのではない部分が交ざっているのが、個人的には「はぁ……」という感じです。 さて、このように書きましたが、あくまでも自分自身、この人の主張に納得できないので、文章を作り上げています。明らかに偏っています。ですから、必ず原典を読んで欲しいなと、それを読んだ上で、自分の指摘した箇所が正しいか誤っているか、或いはその他の感想を抱くかなど、判断して欲しいなと思います。くれぐれも、自分の文章のみを読んで、「この雑誌の記事は変だ!」と腹を立てないで欲しいです。 |