『誤審』を巡る心理を考える

SINCE 2001/01/28

(はじめに)

今回、篠原選手への誤審を巡る問題で、歯がゆく思ったのが、実際に現場で指導されている、或いは競技者として続けられる方々、つまり篠原選手に最も近い人びとの反応でした。マスコミにあがる高名な関係者の方の声に限らず、現場の柔道を行われる方は、ネット上や自分の聞こえる範囲で見解を出されていましたが、その多くが誤審を『交通事故』のように見なしていることです。

『誤審(の被害)は当たり前』
『相手が巧かった』
『なぜ寝技にいかなかった』
『誤審にこだわる必要は無い』
『どうしてその後、攻めなかったのか』

(古賀選手)

こうした言葉が、自分にはどうしても理解できませんでした。明らかな誤審だと認めているにも関わらず、篠原選手を責めたり、突き放したり……同情を見せろと言いませんが、誤審は無くすべき忌々しき問題です。その影響を目の当たりにしたのが、アトランタ五輪からシドニー五輪への、古賀選手の軌跡です。

残り時間わずかのところで致命傷になるとわかっていて『警告』を古賀選手に与えた審判へ、『なぜもっと早い時間に』或いは、『どうしてこの時間に? 意図があるのでは?』、そんな勘繰りをするぐらい、ショックでした。残り時間がほんの少し、ブーラ選手の最後の技もかけ逃げと取られておかしくないのですが、判定は最後の『警告』による印象で、古賀選手は敗北しました。

その後、古賀選手は自らを責められました。自分に克つ為に、怪我だらけの体でもう一度、頂点を目指しました。こうした動きに対する報道も多く、そこで初めて、自分は古賀選手の心を知りました。本も二冊(『勝負魂』:ベースボールマガジン社、『人は弱さを知り強くなる』:PHP研究所)、最近出されています。古賀選手はそのなかで心理を語り、決して審判のせいにせず、自らを高める為に、再度の挑戦をされたのです。

五輪の後にこれらの本を購入したのですが、そこでようやく、『誤審』を交通事故のように考える柔道の現場が見えてきました。自分のようなネット上でのみ柔道との関わりを持つ人間とは、立場が違うのですから、その『交通事故』と考える意見はある意味で正しかったのです。

(立場A:『柔道をしている』)

柔道をされる方は当たり前ですが、競技者です。競技者は敗北を他人のせいに出来ませんし、すべきではありません。日々、次の目標を持ち、自らを高める為に修行をされるのですから、過去に拘泥することはマイナスであり、敗北を『誤審』のせいにしても、その原因が自分ではない以上、どうしようもないからです。

『審判のせいで負けた』

そう思った後、その先があるでしょうか?

『自分に負けた』
『攻められなかった』

こうした悔しさが、次へ繋がるものだと思います。この点で、指導者も同じ立場でしょう。試合はその試合の大きさでの価値(五輪や世界選手権)もありますが、結果です。結果のみにこだわるのでは、武道と言えません。勿論、結果を求めないのも競技者としてマイナスですが、指導者は選手を育てる立場にある以上、尚のこと誤審にこだわっては自らの後ろを歩む競技者の道を間違えさせ、成長を閉ざさせるものです。

この意味で、『誤審は仕方が無い』と競技者、指導者は受け入れます。そしてそれは決して間違っていないと、自分は思います。


(立場B『柔道をしていない』)

ここで登場するのが、柔道をしていない人です。ネットのおかげで意見を言えるようになり、その声も大きくなりました。こうした自分のような人が柔道との関わりをもてるのは、現役で五輪や世界選手権を目指される選手を応援する立場からです。

この点で、柔道をしている人と大きく異なるのは当たり前ですが、自分を含めた彼らにおける『誤審』の比重は、非常に大きいです。なぜならば「競技者でない」のですから、「誤審にこだわること」は悪いことではないですし、選手と違って日々柔道に追われるわけではないからです。また、柔道は毎日頭の中を占める話題を生み出せる競技でも無く、そうなると自然、関心は大きな試合の内容になりますし、そこで活躍する(そして応援している)選手へ目が向けられます。

「誤審で騒ぐのが好きなのか」とおっしゃる方もいますが、『誤審は本当に仕方が無いのか?』と、感じるのは自然なことです。競技者ではないのです、誤審を誰かのせいにしても問題はありませんし、自分の感じるままを表現するのは、良識の範囲内ならば、誤ったことでは無いと思います。

『誤審』なのですから、『誤り』で、『問題』なのです。その原因は何かを考え、それだけの情報を得られる立場にもあるのですから、『どうして誤審を受け入れるばかりで、その原因を解決しようとしないのか』との方向へ心理は進みます。特に篠原選手の、『弱いから負けた』の一言に、『なんとかしたい』と思った人がほとんどではないでしょうか。だからこそ、余計に、『誤審は仕方が無い』の言葉が、『現状の容認=何もしない』ように、僕自身に関して言えば、見えてしまいました。

本来は柔道を好きという同じ立場ながら、様々な場で柔道をされている方と選手のファンの方の間で、こうした議論が繰り広げられ、最終的に、『柔道をしていない人には……』と、言葉が打ち切られることもありました。抗議サイトのほとんどの運営者の方が、今現在、実際に柔道をされている方に見えませんでしたのも、こうした心理の溝を示すものではないでしょうか。

(立場C『全日本柔道連盟』)

ここに大きな矛盾があります。競技者出身であり、現在もコーチや指導者として活動される一線の方々が、国際柔道連盟との唯一の窓口であり、日本を代表する全日本柔道連盟の大きな構成人員である結果、立場Aとしての精神性を引き継いだまま、『誤審は仕方が無い』と考えている可能性が非常に高い点です。

「一本を取る柔道」のように、恃むべきは己の力のみ、とストイックな武道としての面が日本柔道にはありますが、「誤審を受けても勝てるような柔道を」と、運営者までが望むのは選手に対して、酷ではないでしょうか。

人間の力は絶対的ではなく、五輪や世界選手権レベルになれば、もはや圧勝は余程の例外で無い限り、存在しないでしょう。そうなれば微妙な判定を見極められる審判が求められます。強いから勝つのではなく、ミスをした方が負ける極限の世界を選手は戦うのです、一瞬の隙も許されません。

誤審を容認するとは審判のミスで敗北することであり、それは『相手と戦いながら、同時に審判をも敵に回す覚悟で試合に臨め』と言っているように聞こえます。選手にそこまで求めていいのでしょうか。勝ちを拾えと言うのではありません、最低限、選手が相手だけと試合をできる環境を整えられないのかと、言っているのです。

ここにこそ、誤審に憤った感情の正しさがあるように思いますし、自分がこれからも誤審に関わっていくスタンスがあります。

誤審が無くならないのは、生み出した構造を変革せず、放置するからです。本気になって選手を守ろうとする意識に欠け、物質的な不利を精神的なもので補おうとした、『根性論』があるようにも思えます。現場の方々はそれで構わないと思いますが、国際柔道との窓口であり、そのなかで行動する資格を持つ最上層の方々はこの心理を捨て去り、誤審を甘受せず、審判のミスから選手を守る方策を真剣に講じるべきです。

今は全日本柔道連盟も前向きに『ビデオ判定』『審査員制度導入』の方向で動いており、誤審に対する意識の向上が見られます。この点は素晴らしい前進です。

(最後に)


『見る柔道』を提唱したのは、こうした立場の違いを考えたからです。


当ホームページに掲載されているあらゆる内容の無許可転載・転用を禁止します。すべての内容は日本の著作権法及び国際条約によって保護を受けています。
Copyright 2000 YABESATO MASAKI. All rights reserved. Never reproduce or republicate without written permission.
Mail to Yabesato